ホームへ戻ります ブックトップへ updated(first) 01/15/2003 last updated

特集: フィリップ・K・ディック
     映画と原作を徹底比較! 「ブレードランナー」から「マイノリティ・リポート」まで

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フィリップ・K・ディック(Philip K. Dick )(1928-1982)の特集です。
「ブレードランナーからマイノリティ・リポートまで」ということで映画化されたディックの作品5本について原作とそれをどう映画化したか、に焦点をしぼって書いてみました。
またディックの長篇作品についてモグさんにレビューを寄せていただきました。

「マイノリティ・リポート」で興味を持ったという方も、「P・K・ディックは昔から好きだった」という人まで気軽に楽しんでもらえたらうれしいです。

それではめくるめくディック・ワールドへ!





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(1)ブレードランナー


「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」

原題:Do Androids Dreams Of Electric Sheep? (1968)
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(早川書房/ハヤカワ文庫SF)( amazon / bk1 )


1990年代後半、核戦争でほとんどの生物が死滅した地球。生き残った人類もほとんどが火星などの外宇宙に移住し、地球上にわずかに残ったものたちは過酷な生活条件と「孤独」に耐えるため、新たな宗教にすがりついていた。共感ボックスという装置でウィルバー・マーサーという「救世主」が受ける様々な迫害を、信者一人一人が体感し、お互いの感情を共有するというものだ。
また生命体は極端な高値を呼び、例えば「天然の」「ほんものの」羊やロバなどは一般人には高嶺の花。機械で作られた模造生命体でガマンしている人も多いが、ほんものでないことがバレると侮蔑の対象となる。

リック・デッカードは国家公務員でありバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)。火星から地球に侵入してきたアンドロイドを探し出し、「処分」することが仕事だ。アンドロイドは外見上は人間とまったく区別がつかないが、ただ一つ「感情移入」だけはすることができないという。デッカードはその「感情移入テスト」の達人なのだ。
デッカードは天然の羊をマンションの屋上で飼っていたが放射能の影響で死んでしまった。以来模造の羊を飼っている。妻のイーランはマーサーの共感ボックスに夢中だ。
先輩バウンティ・ハンター、デイヴがアンドロイドに返り討ちにあったことから、デッカードは彼の任務を引き継ぐことになる。「狩る」べきアンドロイドはあと6人。彼は手始めにアンドロイドを開発したローゼン協会の幹部、レイチェルという女性に感情移入テストのデモンストレーションを行う。その結果、レイチェルがアンドロイドだということが判明してしまう。
検査の結果は非情だ。彼女は逃亡アンドロイドではなく協会の所有物だということで特例で許される。

物語はもう一人の語り手を用意する。うち捨てられた廃墟で一人暮らす彼の名はジョン・R・イジドア。知能テストで規定点に満たなかったいわゆる「ピンボケ」だ。素朴にマーサーを信じる彼は後にアンドロイドたちと出会い、彼らと「交流」し、追われる彼らに隠れ家を提供する。

ディックとしては相当にストレートな切り口で初めての方にも読みやすいと思う。
SFとしての前提条件が受け入れてもらえれば、だけれど。

デッカードは優秀なバウンティ・ハンターでアンドロイドを「狩る」ことに最初はなんの疑問も持っていない。だがレイチェルへの試験、更に「こんなに感情を喪失した男はきっとアンドロイドに違いない」と信じた男が実は人間だったことなどから、その確信が揺らぎ始める。ついには自分が人間かアンドロイドか疑い始め、自らに試験を試みたりもする。このあたりの「アンドロイドかも?」と感じた瞬間にそれまでの全生活がガラガラと崩れ去ってしまうという展開は、あんまりにも唐突でおかしいと感じられるかもしれない。でもこのテーマはディックの作品では繰り返し出てくるものだし、ここではそれが比較的マイルドに表現されていると思う。
マーサー教、「ピンボケ」の設定など「人間とはなにか?」というテーマに直接結びつくモティーフも出てくる。この小説内では「感情を感じることができることこそが「人間」の証明だ」というような説明がされていて、比較的ポジティブな(あくまでもディックの他の作品と比較して、の話だが)結論に達する。デッカードがアンドロイドであるレイチェルにほれ込んでしまい、彼女のアンドロイドらしい理知的な対応に振り回されたりするのも、なんだかかわいいし。

ディックらしい理屈っぽい部分と、ストーリー・ライン、アクションの部分のバランスがとれていて、安心して読める作品。
ご存知の方も多いと思うが、この作品を映画化した「ブレードランナー」が出来た年、1982年にディックは亡くなった。「ブレードランナー」は80年代を代表するカルト・ムーヴィーとなり、ディックは生前では決して得られなかった評価を受けることになる。

それでは次に「ブレードランナー」を小説版との比較という切り口で見てみよう。
今回の5本の映画、作品はこのやり方で紹介してみます。



「ブレードランナー」(1982年、アメリカ)
監督:リドリー・スコット
出演:ハリソン・フォード、ルトガー・ハウアー、 ショーン・ヤング

「ブレードランナー」はビデオで入手可能なものが3つのヴァージョンがあって「通常版」「完全版」「ディレクターズ・カット(最終版)」とあるが、今回は「最終版」(1992年公開)を取り上げようと思う。

※今回後半ネタばれしてますので未見の方はご注意下さい!

この映画は日本人にとっては2019年のロサンゼルスの雑踏風景がやはり一番印象に残るものだと思う。「強力ワカモト」やコカ・コーラなどの動画広告がギラギラする街頭にはウドン屋さんが並び、雨の中道行く人たちの差しているのは真っ黒なこうもり傘。中国語と日本語、英語が乱れ飛ぶ雑踏。未来社会を描いているというよりも80年代からの新宿あたりの町並みそのものを連想させるこのシーンで、この映画は我々には忘れられないものになった。

基本設定は一応原作を踏襲している。冒頭はデイヴがアンドロイド(今作では「レプリカント」)の一人リオンに感情移入テストをしていて、返り討ちにあい射殺されてしまうところから。そこでロサンゼルスの街頭でウドンをすするデッカード(ハリソン・フォード)が警察に呼び出しを受け、彼の任務、ここでは残り4人のレプリカントの「処理」を引き継ぐことになる。ちなみにデッカードの立場は引退したレプリカント特装班の一員であり、彼の妻子については自室に写真があるだけで劇中では触れられない。レイチェル(今作ではショーン・ヤング)の会社はタイレル社という名に変わっているが、この会社がレプリカントの研究・開発を進め、「ネクサス 6 型」という外見上は全く人間と区別がつかないタイプを作り出したことには変わりがない。レイチェルの感情移入テストもあるが、映画でのレイチェルは改良によって「感情に芽生えつつある」レプリカントであり、原作よりもその存在感はウェットだ。他のレプリカントにしても同様。

原作からのカット点としては、まずマーサー教関係の設定が一切ないこと。マーサーというのは多分にキリストの受難を意識している部分があり、これによって原作では基本的に「殺生」というものはアンドロイドを「処分」する以外、たとえどんな小さな動物に対しても「あってはいけない」ことだった。この設定がなくなったことでSFアクションとしての展開が可能になり、映画としてはより幅広い層に受け入れられるものになったのだと思う。後半はレプリカントとの「死闘」になり、このあたりあっさりと「処理」を行ってしまう原作とは一線を画している。
それからデッカードが羊を飼うという設定もなくなっている。生命と非生命との対比というテーマは、レプリカントに「生まれてきた苦悩、生き延びたいという欲求」を語らせることで表現している。レイチェルにしてもレプリカントのリーダー格ロイ・バティー(ルドガー・ハウアー)にしても。ちなみにレプリカントらの名前も含めて原作の登場人物名で共通のものもあるが、キャラクター設定はほとんど別物といっていい。例えばJFセバスチャン(原作では「ピンボケ」のイジドア)は知能検査には落ちたもののタイレル社の研究員でもある。彼の部屋はあらゆる「オモチャ」が散乱していてまさに「オタク」そのものという描写。その部屋に最初に転がり込むレプリカント、プリスは原作ではレイチェルと同じ機種、姿だが今作では髪の毛が逆立ったパンキッシュなおねーちゃんという設定だ。ロイ・バティーにしても原作では隠れて「狩り」をやりすごすことも考える思慮深い男であるのに対して、今作ではデッカードを本気で「殺しにかかってくる」。ルドガー・ハウアーの演技は狂気むき出しでなかなか怖い。

後半はレプリカント側のシーンと彼らとの死闘、デッカードとレイチェルの恋がどうなるかの二つを軸に進む。
レイチェルは感情移入テストのあと、自分が何者であるのかという不安にかられ、ついに真実を知ってしまい「逃亡レプリカント」となり、デッカードの「リスト」に載ってしまう。その後デッカードのアパートを訪ね、不安のまなざしで「わたしを殺すの?」とうったえかける。デッカードは「殺しはしないさ」と誓って彼女を抱き寄せる。このシーンはヴァンゲリスの有名な「ブレードランナー 愛のテーマ」。前後して彼女は「同胞」リオンをデッカードの命を救うために殺してしまう。
一方レプリカント側はJFセバスチャンのつてを使ってタイレル社社長タイレル氏に面会する。セバスチャンとタイレル氏がチェス友達でロイ・バティーのアドバイスでセバスチャンが勝負に勝ったことで面会が実現するという趣向も面白い。ロイ・バティーはタイレル氏に「レプリカントの寿命は4年しかない。これを変えることはできないのか?」と詰め寄るが、その答えはノー。生命コーディングは非常に繊細で修正すれば個体が破壊されるだけだという。自分の存在の不確かさに耐えられなくなってついにはロイ・バティーは「生みの親」タイレル氏をJFセバスチャン共々殺してしまう。
その現場の捜査からセバスチャンの部屋へとたどりつくデッカード。プリスとの死闘に勝ち、残るはロイ・バティーのみ。男と男の1対1の対決が始まる。このシーンはデッカードの「指を折る」描写がすごく痛そうだったり、ルドガー・ハウアーが頭から壁をぶち破ってどなりちらすなどハウアーの破天荒な活躍が楽しめる。見せ場なんだけどちょっと笑えます。
ロイ・バティーを倒したデッカードはレイチェルとの「限られた時間」を大切にしようと新たな決意を固めるのだった。

80年代のポップ・カルチャーに大きな影響を与え、ディックの人気を押し上げた映画だが久しぶりに観てもその面白さは変わらず。今まで作られたディックの映画ではやはり「最も丁寧に作られた作品」なのだと思う。シド・ミード、デイヴィッド・スナイダーらの美術も今見ても新鮮だし。ヴァンゲリスの重厚すぎるまでに重厚なシンセ・サウンドはやはり「人工的な」この作品には合っているんだな、と思う。


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