宮本武蔵
司馬 遼太郎

発売日 1999/10
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司馬遼太郎版の「宮本武蔵」、こちらは長編。
冒頭で武蔵の故郷美作を司馬は訪ねる。そこの美術展で武蔵が描いたという「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」を見て武蔵の実像へと思いを馳せる。人物を描写するのにまず自分がそこに行って感じたものを大切にする。これは司馬のよく使う手法だ。

生い立ちからじっくりと描いていく。
父の無二斎は剣術使いにありがちなやや難しい性格で、子供にあたることも多く、武蔵も生涯父については多くを語らなかった。
13歳で有馬喜兵衛という兵法者を打ち倒した。この年齢が若いかどうかは別として、武蔵は終生「勝てる試合、状況」を見極めた上で勝負をしており、勝てない相手との勝負は慎重に避けていたというのは事実のようだ。
関ヶ原で西軍に属したが軍功なく、敗走。

吉岡一門との対決では短編「真説宮本武蔵 」とは逆に当主清十郎、さらにその弟伝七郎(ともに史実にはなし)を討ち取ったという説をとっている。その後の一乗寺下り松での決闘の描写は短編よりも精緻に清十郎の子(まだ幼児というだけで年齢は不明)、又七郎を「討ち取る」過程が描かれている。
その後の槍の名手宝蔵院流、鎖鎌の宍戸との対決などは吉川版に準じているが、「セコイ武蔵」だとここまで印象が違うものか。司馬の剣術描写はロマンティックな描写を廃し、剣術者の「呼吸」を身もフタもなく描いていく。

佐佐木小次郎との巌流島の対決もたっぷりと。
小次郎の燕返しなどから彼の剣を「兵法は反射に尽きる」、つまり初速のスピードに徹したものだとし、武蔵のそれとは対照的だという。
武蔵の重んじているのは「間」。
へたをすると禅のような精神論にいってしまいそうなものだが、これで相手の「呼吸」を乱し、結果的に勝ってきた。
巌流島で遅刻し、小次郎をいらだたせたのもこれを狙ったものであり、その間試合で使う木刀を作っていたという説を採用している。

武蔵は30歳を過ぎてからは剣法試合は避けるようになった。剣というものの難しさ、怖さを知ったためかもしれないし、他のことに興味が移ったということかもしれない。
生涯武家に仕えようと運動を続けるが、大阪の陣でも豊臣方に身を投じるなど、どうも武蔵は当人が思っているほどにはこの方面には明るくなかったらしい。仕官口にも他の兵法者が多くても500石ほどの録であるのに3000石を要求し、相手が飲めない条件で自ら機会を放棄しているともとれる。
また武蔵の兵法が「彼固有の気」を用いるものであるため、他の人に扱えず、後の世まで伝えられることなく終わった。このことが同時代の伊藤一刀斎が起こした一刀流が科学的な誰にでも扱えるものであったためにその後日本剣道の正統となったことと合わせて語られる。

今回司馬遼太郎の武蔵を2冊読んだんだけど、より史実に近いこの武蔵像が荒唐無稽な吉川英治の武蔵像とどちらが魅力的かといったら、僕は吉川版のほうだと思う。
このあたりのサジ加減が難しいところでもあり、面白いところでもありますね。

参考サイト
「枯木鳴鵙図」

宮本武蔵(播磨武蔵研究会)

(読了日 2004/4/9 )







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